【副将軍】徳川光圀の食

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 いまやラーメンは日本人に欠かせない食のひとつです。ご当地ラーメンなどに代表されるように、麺、スープ、調理技法は実に多彩で、さまざまなバリエーションが生み出されています。

 ラーメンは中国の麺料理を起源としますが、その後に日本で独特の進化を遂げた食です。中国では粉をこねて、引き伸ばす麺料理のことを拉麺(ラーミェン)と呼びます。中国の代表的な拉麺としては、牛肉のスープに手だけで伸ばした麺を茹でた蘭州拉麺などがあります。現在の日本のラーメンという名前は、この拉麺が起源と言われています。

 室町時代にラーメンが食べられていたことを示す新説が2017年に登場するまで、ラーメンを日本で初めて食べたとされる人物が、水戸黄門の呼び名で有名な第2代水戸藩主の徳川光圀です。

 幅広い交友関係を持っていた徳川光圀のもとには、大名や公家、寺社などから諸国の名産が集まりました。こうした状況から、徳川光圀は食に対して深い関心を持つようになり、自ら料理をすることで調理技術を研究していました。

 中国の儒学者である朱舜水を徳川光圀は厚遇し、朱舜水は中国の食材や漢方を徳川光圀に献上しました。徳川光圀は、朱舜水から教わったレンコンからつくるでんぷん粉の藕粉(ぐうふん)を使ってつくる麺料理を食べていたようです。

 中国から伝えられた中国の麺であるため、ラーメンを初めて食べたという解釈がされたようですが、実際のところ徳川光圀が食べていたのは、中国の平打ち麺であくまでラーメンのようなものです。どちらかというと、うどんに近いものでした。このように、朱舜水が徳川光圀に中華麺を伝えたことが、徳川光圀が日本で初めてラーメンを食したと言われる所以です。しかし、徳川光圀が先駆けて中国の麺とスープを食していたことは、間違いないようです。

 黄門様で有名な徳川光圀は、平均寿命が一般に50歳といわれた時代に73歳という長寿を全うされました。医食同源の思想に基づいて、食事には漢方を取り入れ、一汁三菜を基本として、季節の野菜をよく食べていたようです。水戸藩内の食材にも精通し、産地にまでこだわりをみせていました。このような徳川光圀の食の様子を記載している文献を、水戸の料理人が読み解き、調理方法の研究を重ねて、現代の味覚に合うようにした料理が、黄門料理です。

水戸藩主徳川光圀とラーメン

 いまやラーメンは日本人に欠かせない食のひとつです。ご当地ラーメンなどに代表されるように、麺、スープ、調理技法は実に多彩で、さまざまなバリエーションが生み出されています。

 ラーメンは中国の麺料理を起源としますが、その後に日本で独特の進化を遂げた食です。中国では粉をこねて、引き伸ばす麺料理のことを拉麺(ラーミェン)と呼びます。中国の代表的な拉麺としては、牛肉のスープに手だけで伸ばした麺を茹でた蘭州拉麺などがあります。現在の日本のラーメンという名前は、この拉麺が起源と言われています。

 室町時代にラーメンが食べられていたことを示す新説が2017年に登場するまで、ラーメンを日本で初めて食べたとされる人物が、水戸黄門の呼び名で有名な第2代水戸藩主の徳川光圀です。

 江戸時代の講談やテレビ時代劇の影響で、全国を行脚し、行く先々で弱きを助け悪を挫くという痛快なイメージが定着している徳川光圀ですが、実際に各地を巡ったとする確かな資料は残っていません。編纂に携わった大日本史の資料収集のため、家臣を全国に派遣したり、光圀自身が水戸藩領内の視察を行っていたりしたことから、全国を行脚する光圀像が形づくられたと考えられています。

 このようなイメージを持たれている徳川光圀は、当時の資料を紐解くと、意外な一面を垣間見ることができます。

 徳川光圀は、1628年に初代水戸藩主徳川頼房の子として誕生しました。徳川家康の孫にあたり、幼名は長丸、後に千代松と改め、元服し光国と名乗り、さらに光圀と改めました。呼び名として頻繁に使われる黄門とは官位である中納言の唐名で、徳川光圀が隠居する際に権中納言に任じられたことから、講談などで呼び名として使われるようになりました。

 少年時代の光圀は、後のイメージと異なり、必ずしも素行が良いとは言えませんでしたが、司馬遷の史記に触れてから態度を改め、勉学に励むようになったと言われています。1661年に水戸藩主の座を継ぐと、古典研究、文化財の保護、寺社改革などに注力するようになりました。

 当時の武家社会においては、儒学の影響で中国に倣うことが多かったことから、本場の儒学者に学びたいと考えていた徳川光圀は、長崎に渡来していた儒学者の朱舜水の噂を耳にし、江戸の水戸藩邸へ招聘しました。

 徳川光圀に招かれた朱舜水は、師として助言をするようになり、儒式礼法、農業、造園技術をはじめ多くの知識を徳川光圀に伝えました。

朱舜水の伝えた拉麺

 幅広い交友関係を持っていた徳川光圀のもとには、大名や公家、寺社などから諸国の名産が集まりました。こうした状況から、徳川光圀は食に対して深い関心を持つようになり、自ら料理をすることで調理技術を研究していました。

 徳川光圀は、魚介類の産地にもこだわりを見せ、真鶴で水揚げされるブリを好むなど諸国の食についての記録を残しています。また、徳川光圀の麺好きは有名で、自らうどん打ちを披露し、家臣に振る舞いました。

 中国の儒学者である朱舜水を徳川光圀は厚遇し、朱舜水は中国の食材や漢方を徳川光圀に献上しました。徳川光圀は、朱舜水から教わったレンコンからつくるでんぷん粉の藕粉(ぐうふん)を使ってつくる麺料理を食べていたようです。朱舜水は、この麺にあわせるスープのだしを中国ハムでとり、麺の薬味として、資料には五辛とされる中国由来の薬味のニラ、ラッキョウ、ねぎ、にんにく、しょうがの5種を用いました。

 中国から伝えられた中国の麺であるため、ラーメンを初めて食べたという解釈がされたようですが、実際のところ徳川光圀が食べていたのは、中国の平打ち麺であくまでラーメンのようなものです。どちらかというと、うどんに近いものでした。しかもその後の研究で、徳川光圀より以前の室町時代の資料にラーメンが食されていたという記述が、発見されています。いずれにしても、徳川光圀の食に対する好奇心が、並々ならぬものでした。

 このように、朱舜水が徳川光圀に中華麺を伝えたことが、徳川光圀が日本で初めてラーメンを食したと言われる所以です。しかし、朱舜水の伝えた中華麺に関して、調理法を記した資料は見つかっていません。また、朱舜水が伝えた中華麺は、広く普及することはありませんでした。しかし、徳川光圀が先駆けて中国の麺とスープを食していたことは、間違いないようです。 なお、中華麺の定義は、かん水を使っているということです。かん水とは、アルカリ塩水溶液で、小麦粉に混ぜることで、しなやかさとコシを出し、発色をよくします。

ラーメンの普及

 ラーメンの歴史を辿ると、現在とほぼ同じものが日本で広く普及したのは、明治時代以降のようです。明治初期の横浜中華街には、長崎から移住してきた広東の人が多く在住していました。そこに広東以外からも多くの中国人が進出しています。そこで提供され広まったのが、南京そばと呼ばれるもので、これが現在のラーメンの原形になったとされています。

 ラーメンが、日本人の生活に深く浸透したといえるのは、ここ100年ほどのことです。

黄門料理

 黄門様で有名な徳川光圀は、平均寿命が一般に50歳といわれた時代に73歳という長寿を全うされました。医食同源の思想に基づいて、食事には漢方を取り入れ、一汁三菜を基本として、季節の野菜をよく食べていたようです。

 徳川光圀は、食に関心が深く、うどんを打つのが得意で家臣に振る舞っていたという記録も残されています。水戸藩内の食材にも精通し、米は常陸太田の河合米、鮭は那珂川、鮎は久慈川、鯉は玉里村というように、産地にまでこだわりをみせていました。

 朱舜水からは中国のチーズ、餃子、中国ハム、牛肉料理などを提供され、食していました。徳川光圀が、好んでよく飲んでいたのが牛乳酒です。牛乳に酒と水を入れ、さらに当時大変貴重な砂糖が加えられていました。

 このような徳川光圀の食の様子を記載している文献を、水戸の料理人が読み解き、調理方法の研究を重ねて、現代の味覚に合うようにした料理が、黄門料理です。

まとめ

 いまやラーメンは日本人に欠かせない食のひとつです。ご当地ラーメンなどに代表されるように、麺、スープ、調理技法は実に多彩で、さまざまなバリエーションが生み出されています。

 ラーメンは中国の麺料理を起源としますが、その後に日本で独特の進化を遂げた食です。中国では粉をこねて、引き伸ばす麺料理のことを拉麺(ラーミェン)と呼びます。中国の代表的な拉麺としては、牛肉のスープに手だけで伸ばした麺を茹でた蘭州拉麺などがあります。現在の日本のラーメンという名前は、この拉麺が起源と言われています。

 室町時代にラーメンが食べられていたことを示す新説が2017年に登場するまで、ラーメンを日本で初めて食べたとされる人物が、水戸黄門の呼び名で有名な第2代水戸藩主の徳川光圀です。

 幅広い交友関係を持っていた徳川光圀のもとには、大名や公家、寺社などから諸国の名産が集まりました。こうした状況から、徳川光圀は食に対して深い関心を持つようになり、自ら料理をすることで調理技術を研究していました。

 中国の儒学者である朱舜水を徳川光圀は厚遇し、朱舜水は中国の食材や漢方を徳川光圀に献上しました。徳川光圀は、朱舜水から教わったレンコンからつくるでんぷん粉の藕粉(ぐうふん)を使ってつくる麺料理を食べていたようです。

 中国から伝えられた中国の麺であるため、ラーメンを初めて食べたという解釈がされたようですが、実際のところ徳川光圀が食べていたのは、中国の平打ち麺であくまでラーメンのようなものです。どちらかというと、うどんに近いものでした。このように、朱舜水が徳川光圀に中華麺を伝えたことが、徳川光圀が日本で初めてラーメンを食したと言われる所以です。しかし、徳川光圀が先駆けて中国の麺とスープを食していたことは、間違いないようです。

 黄門様で有名な徳川光圀は、平均寿命が一般に50歳といわれた時代に73歳という長寿を全うされました。医食同源の思想に基づいて、食事には漢方を取り入れ、一汁三菜を基本として、季節の野菜をよく食べていたようです。水戸藩内の食材にも精通し、産地にまでこだわりをみせていました。このような徳川光圀の食の様子を記載している文献を、水戸の料理人が読み解き、調理方法の研究を重ねて、現代の味覚に合うようにした料理が、黄門料理です。

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