【薬食同源】明治時代に普及したカレー

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カレーの普及に貢献したクラーク博士

 明治時代初期に日本へ初めて入ってきたカレーは、欧風カレーです。外国文化の憧れのまとは、先進国であるヨーロッパの国々のハイカラで高級な食文化でした。これに当時の上流階級や知識階級が傾倒していました。このような人々が、ヨーロッパで食べていた欧風にアレンジされたカレーを喜んで受け入れていました。

 カレーの普及に寄与した人物の一人に「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士がいたことは、あまり知られておりません。明治9年に来日し、1年余りの期間、札幌農学校で教鞭をとったクラーク博士は、学校の寮の規則に「生徒は米食を食すべからず。ただし、ライスカレーはその限りに非ず。」という一文を加えました。その理由は、それまで肉食が禁止されていた日本人はどうしても栄養が不足し、体格が虚弱であると考え、欧米のようにパン食や肉食を奨励したからです。

 そこには、日本人の主食である米への依存もありました。ご飯ばかり食べ、おかずを軽視していては、栄養不足につながります。そこで、日本人が好きなご飯に栄養価の高いカレーを組み合わせることで、受け入れられやすいと考えました。

 また、カレーは肉を細かくして煮込み、香辛料が肉のくさみを消す効果があるので、肉食に慣れていない日本人に抵抗感が少ないことも、カレーを受け入れる土壌となりました。

高級料理だったカレーの浸透

 日本の料理書で初めてカレーの名前が登場するのが、文明開化後間もない明治5年に出版された西洋料理指南という書物で、その調理法は今のカレーとはかなり異なっていました。原材料が煮上がってからカレー粉を入れ、さらに煮込み、食塩を加えて小麦粉を溶いて入れるとあります。これはまるで日本料理の片栗粉によるとろみづけと同じです。

 また、原材料は鶏肉と魚介類が主体で、今の日本のカレーに欠かせないジャガイモやニンジン、玉ねぎは使われず、野菜はネギだけです。これは、ジャガイモやニンジンなどがいずれも日本で普及するのが、明治の北海道開拓が本格化してからのことであり、牛肉や豚肉は高価だったからです。

 ところが、日露戦争が勃発したことで、状況は一変します。海軍の横須賀鎮守府が、兵士の食糧としてカレーを採用しました。1908年の海軍割烹術指南書には、カレーのつくり方が掲載されています。カレーは一皿でおかずとご飯、汁物を兼ねていて、かつ大人数分を一度につくることができ、栄養バランスに優れています。まさに軍隊の料理として最適でした。

 このような理由から、一般生活の中では明治時代の後半までカレーは一部の洋食店の高級料理でしたが、兵士たちの間で広まりを見せます。軍隊でカレーの美味しさを知り、つくった経験のある地方出身者などが、除隊後地元でカレーを広めました。カレーの浸透の立役者は、軍隊でした。

 昭和12年の陸軍省検閲済軍隊調理法にも、カレー汁が紹介されています。ここには原材料として牛肉やジャガイモ、ニンジン、玉ねぎを使っています。今のカレーの基本要素は、すでにこの時点で確立しています。

カレー粉を扱った会社

 日本に上陸したカレーに欠かせないカレー粉は、C&Bカレーを筆頭とする輸入カレー粉が幅をきかせていました。

 明治の終わり頃になると、国産カレー粉が発売されました。発売元はなんと薬屋です。当時カレー粉の原材料である香辛料は、いわば漢方薬でした。漢方薬専門の薬屋では、昔からこれらを取り扱っていました。故にカレー粉も販売するようになりました。明治38年に日本初のカレー粉を販売した大和屋(現在のハチ食品)は、大阪の薬問屋でした。同じく大阪の浦上商店(現在のハウス食品)も薬問屋でした。

 日本で初めて純国産カレー粉の製造が始まったのは、大正12年に日賀志屋(ひがしや 現在のヱスビー食品)が、ヒドリ印を売り出してからです。ちなみに製品名の「ヒ」はSun、「ドリ」はBirdであることから、S&Bのブランド名はつくられました。

 家庭にもカレー人気に火がついたことから、大正末から昭和にかけて、浦上商店がホームカレーやハウスカレーなる製品を相次いて販売しました。

カレーと共に発展した福神漬け

 日本風カレーの薬味の定番は、福神漬けです。どうしてカレーと福神漬けが結びついたのでしょうか。

 明治時代に日本郵船の欧州航路の一等客室食堂で、メニューの中にカレーがありました。そこで偶然にも福神漬けが添えて出されていました。船内で福神漬けの添えられたカレーを食べ、これを気に入った人が、日本郵船のカレーと共に福神漬けを持ち込みました。その結果、福神漬けが知られるようになりました。

 一方、カレーの付け合わせではなく、福神漬けが単体で全国に知られるようになったきっかけがあります。日清日露戦争のときに、軍隊の携行食糧として福神漬けが採用されており、その美味しさを知った兵士が、除隊後福神漬けを故郷へ持ち帰りました。

 そもそも福神漬けとは、明治10年頃東京は池之端の酒悦(現在も酒悦)が考案した大根やナス、かぶ、うり、しそ、れんこん、なた豆を原材料とした漬物で、原材料が7種類であることから、七福神にあやかって福神漬けと名付けられました。

まとめ

 カレーの普及に寄与した人物の一人に「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士がいたことは、あまり知られておりません。明治9年に来日し、1年余りの期間、札幌農学校で教鞭をとったクラーク博士は、学校の寮の規則に「生徒は米食を食すべからず。ただし、ライスカレーはその限りに非ず。」という一文を加えました。その理由は、それまで肉食が禁止されていた日本人はどうしても栄養が不足し、体格が虚弱であると考え、欧米のようにパン食や肉食を奨励したからです。

 明治時代の後半までカレーは一部の洋食店の高級料理でしたが、兵士たちの間で広まりを見せます。軍隊でカレーの美味しさを知り、つくった経験のある地方出身者などが、除隊後地元でカレーを広めました。カレーの浸透の立役者は、軍隊でした。

 明治の終わり頃になると、国産カレー粉が発売されました。発売元はなんと薬屋です。当時カレー粉の原材料である香辛料は、いわば漢方薬でした。漢方薬専門の薬屋では、昔からこれらを取り扱っていました。故にカレー粉も販売するようになりました。

 明治時代に日本郵船の欧州航路の一等客室食堂で、メニューの中にカレーがありました。そこで偶然にも福神漬けが添えて出されていました。船内で福神漬けの添えられたカレーを食べ、これを気に入った人が、日本郵船のカレーと共に福神漬けを持ち込みました。

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