【日本の美意識】わびさび

食品の開発
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「わびさび」という言葉の意味

「わびさび」とは、どのような意味を持つのでしょうか。どうやらわびさびという言葉の意味が分からないということも、よくあるようです。

 わびさびは、日本の好みや美の基準に今も影響を与える日本の美意識の根幹とされ、不十分のなかに心の充足をみいだそうとする意識です。閑寂の中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさを指します。そのため、はかなさや哀愁、自然などの美を不十分な姿で良しとしています。

 わびさびは、不十分なままで良しとしていることから、そこに想像の入り込む余地が生じ、想像力が刺激されることになります。

 わびさびの概念は、中国は宋の時代に道教から生まれ、禅仏教に取り込まれました。そもそもは、禁欲的かつ控えめに美を感じる方法として捉えられていました。道教では、完璧なものには、それ以上の成長や発展がないため、完璧はすなわち死に相当すると考えられています。完璧を求め、完璧な状態を維持しようと努力する姿勢は、あまりに完璧を重視するあまり、結果的に変化と成長の喜びを失ってしまいます。

 わびさびという言葉の由来は、侘しさと寂しさを表す日本語です。この世のものは、経年変化によりさびれます。これは劣化を意味しますが、逆にその変化が織りなす多様で独特な美しさをさびといいます。さびれを受け入れ、さびの美しさを見出す心がわびです。

千利休の茶の湯における「わび」

 わびさびと聞くと茶道を思い浮かべるかもしれません。

 室町時代の貴族や武士の間では、中国の豪華な茶器を集める美術品鑑賞としての茶の湯が広まりました。室町時代中期以後は、茶人村田珠光によって、簡素で静寂さを感じる道具を使って行う新しいお茶の礼式がつくられました。これが「わびちゃ」です。

 わびちゃは、不十分を肯定し、簡素で閑静を楽しむ茶の湯のことです。

 村田珠光は、満月のこうこうと輝く月よりも、雲の間に見え隠れする月の方が美しいと述べています。このことからも、不足した美を楽しむ精神が見受けられます。

 村田珠光の茶の湯をさらに深めたのが、堺の豪商武野紹鴎です。この武野紹鴎に茶の湯を学んだのが千利休となります。千利休は、心の交流を中心とした茶の湯を目指します。さらに数々の道具を創造することで、今までの茶の湯には見られなかった独創性を開花させ、わびちゃを大成しました。

松尾芭蕉の「さび」

「古池や蛙飛び込む水の音」、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」でお馴染みの松尾芭蕉は、さびを作者の心情に表すものとして、積極的に志向していました。当時、華やかさがもてはやされていた俳諧において、さびを織り込んだ芭蕉の俳句は、衝撃的でした。

食品と「わびさび」

 わびの精神をつくり出しているものは、木や土、石、そして各種の食材などの自然のものです。食品においては、食材を使って、本来持っている色や形、質感、味、香りなどを引き出して表現することによって得られる美しさが、わびの心髄といったところでしょうか。自然の中に見られる美ですが、自然に置かれている状態の美というよりは、食材の持つ良さを最大限に引き出そうとする人の手が加わることによって生れる美しさです。極めて人工的なものを排除し、ある面では見た目が悪いとも感じられる質素さと美しさの両方を兼ね備えた絶妙な美しさを意味しています。

 さびは、時間が経過することによって引き出されてくる美意識を意味します。食品においては、強いて言えば熟成させることによって醸し出される味や香りといったところでしょうか。

 わびさびの不十分なままで良しとする美意識が、想像力をかきたて、新たな食品の開発をかきたてるかもしれません。

まとめ

 わびさびは、日本の好みや美の基準に今も影響を与える日本の美意識の根幹とされ、不十分のなかに心の充足をみいだそうとする意識です。閑寂の中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさを指します。そのため、はかなさや哀愁、自然などの美を不十分な姿で良しとしています。

 わびさびは、不十分なままで良しとしていることから、そこに想像の入り込む余地が生じ、想像力が刺激されることになります。

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